記事: 第1話:『アニメへの道は子供時代から決まっていたのか?!』
第1話:『アニメへの道は子供時代から決まっていたのか?!』
初めましての方、アニメを通してわたしを知っている方、自己紹介します。
わたしは、古里尚丈(ふるさとなおたけ)と申します。
アニメーションの企画・制作プロデューサーです。
株式会社いいじゃんの鈴木(将史)社長とお話をしまして、ひとつ提案を頂きました。
「いいじゃん」のホームページに、古里さんのアニメ人生のなか楽しかったことや興味深いこと、印象的な出来事など書いてもらえないか?と、なりました。
「え? いまなんと言いました?」と聞き直してから改めて考えました。
わたしの曖昧な記憶のなか、思い出せることから書いて行くので、それで良いですか?と言いましたら、問題ありませんと答えがきました。
と言うことで、これからわたしが21歳でアニメ業界に足を踏み入れてから、あっという間に現在62歳までのアニメの道のなか、思い出せることを書いて行きたいと思います。
タイトル【ふるさとP(プロデューサー)アニメ道(みち)】をよろしくお願いします。
あと、たまに脱線して、自分の趣味などを書いてしまうかも知れませんので、何とぞご勘弁を。
わたしは、青森県八戸市で昭和36年5月3日に生まれました。
そして、小学校時代は七戸町で育ちました。1万人ちょっとの小さな田舎町です。
西に、八甲田山が見えます。東の太平洋側の古い地層に貝塚があります、そして、縄文土器や土偶が出土して、当時小学校や公民館にそれらを飾っていました。
空気も水も綺麗で美味しい、そんな環境のなか、元気に暮らしておりました。
小学校時代は友達とノートに漫画を描いて見せあったりしていました。
当時のノートが残っているので見てみると、ウルトラマンもどき、仮面ライダーもどき、マットアローもどきを描いています。
ウルトラマン(1966年)は小学校に入る前の放送ですね。
いま、また大阪万博が近くなったので良くニュースを見ますが、わたしが小学3年生当時も大阪万博のニュースが日々賑わっていたことを思い出します、また、オイルショックやよど号事件などショッキングな事件もありました。
仮面ライダー(1971年)は小学4年生のときにテレビ放送でした、当時、特撮ドラマが多く放送していましたので、本当に良く見ていました。
すぐに思い出せるタイトル、「シルバー仮面(1971年)」、「アイアンキング(1972年)」、「サンダーマスク(1972年)」、「変身忍者嵐(1972年)」、「突撃ヒューマン(1972年)」等々、もっとありますが、ここまでとします。
そして、「マジンガーZ(1972年)」の放送が小学5年生です。
巨大ロボットに乗りたいと思ったものです。中学1年生のとき「宇宙戦艦ヤマト(1974年)」が放送になり、教室ではワープだ、リープだとSFをかじった子供たちが知ったかぶりして言い合いしていましたね。でも、わたしは「猿の軍団(1974年)」を見ていました。
しっかりヤマトの輪に入れずにおりました、いわゆる、へそ曲がりなのです。
さらに、わたしの時代は、マニアでなくとも、色々なタイトルの作品を見ることが出来ました。また、月刊誌に怪獣図鑑の付録があったので、怪獣の足型を見て怪獣の名前を当てることも出来ました。これは、当時の子供としては割合普通のことでした。
あと、NHKで放送した筒井康隆原作「タイムトラベラー(1972年)」にハマっていました。そして、人形劇「新八犬伝(1973年)」は大好きでした。
中学校時代、「UFOロボ グレンダイザー」や「勇者ライディーン」があって、「無敵鋼人ダイターン3」、「機動戦士ガンダム(以下、ガンダム)」の放送が高校時代に始まります。
青森県では、「ガンダム」は朝の放送でした。
そして、シャアが赤いズゴックで登場した第26話で最終回を迎えました。
「え?」と虚無感を覚えるわたし。
次週から「ガンダム」の放送はなかったのです。虚しい生活が始まったことを覚えています。
アニメック、アウト、アニメージュなどで本当の最終回まで特集を組まれていても、後半の物語を知らないわたしは、東京に出るまで見ることが出来なかったのです。
真面目に青森県の放送局を恨んだものです。
ロボットアニメ以外にも、宮崎駿監督の「未来少年コナン」、出崎統監督の「家なき子」「宝島」などハマりました。
1980年、高校を卒業し、ついに東京に出て写真の専門学校に入学しました。
わたしは、中学時代から写真部でしたので、プロカメラマンになりたかったのです。
実際は、ならなかったし、なれなかったんです。
センスが悪くて、才能のないことを認識しました。プロとして通用する写真が撮れなかったのです。でも、モノクロ写真はフィルム現像から引き伸ばしまでやれますし、カメラは当時のプロカメラマンが使っていたニコンF2と言う一眼レフカメラでした。
ちなみに、アニメのプロデューサーになってから、ポスター作成のレイアウトを考えるときに写真撮影のノウハウが役に立った気がします。
わたしは、レンズの画角や収差、ボケ味など、カメラの持つシャッタースピードや露出などの意味も知っているので、これも、アニメのレイアウト作りや撮影の考えなどに転用出来たので、役に立っているかも知れません。
19歳、写真専門学校時代。
アニメ映画「地球へ…」「銀河鉄道999」「機動戦士ガンダム・Ⅱ・Ⅲ」「イデオン接触篇・発動篇」など観ました。東京には映画館がたくさんあるのでどこで観るのが良いのか?悩みます。
友達が住んでいた浅草でも観ましたし、上野の映画館でも観ました。当時、国鉄(JRじゃないんですよ)の中央・総武線の平井駅の近くにいましたので、新宿はちょっと遠かったのです。
1982年2月新宿アルタ前で行われた劇場版「機動戦士ガンダム」の宣伝の一環で、「アニメ新世紀宣言」と言うイベントがありました。な、なんとその場にわたしもお客さんとして参加し、壇上を見ていました。「重戦機エルガイム」のデザイナーの永野さんがシャアのコスプレで壇上にいたこと記憶しています。
歴史の証人とは言いませんが、そこには今後のアニメが変わるのかな?と思わせる熱気がありました。
あの頃、1960年前後に生まれた若者のことを、一部ではニュータイプと言ってました。
簡単に説明すると、オールドタイプの大人たちから見ると、いまの若者は何を考えているかがわからないとの意味です。でも、これって、いつでもいつの時代でも大人に言われることなんだと、62歳のわたしは思います。
いまのわたしは超オールドタイプです、額のあたりに光は出ません。
正直、世代間ギャップは、どんな時代にもあるんだと再認識です。
待っていたことが起きました。なんと「ガンダム」の再放送が始まると知ったので、お金を貯めて安いVHSデッキを買いました。タイマー予約して3倍で録画、とても画質が悪いのですが、ついに第27話以降を見ることが出来た時、ひとつの達成感がありました。
いま思うと、「ガンダム」は、アニメ業界に向かうためのひとつの道標だったのかも知れません。
さて、アニメだけを見ていたわけでなく、課題の写真もたくさん撮りました。
でも、プロカメラマンが自分のなりたい仕事ではないと気がついたのです。
実は、カメラが好きだったのです。
そこで、写真が好きなのか?と問うと、悩んでしまう自分がいるのです。
後に、「勇者エクスカイザー」で設定制作をやった時に、わたしはメカのデザインを考えるのが好きなんだと気がついたのです。
つまり、カメラやレンズが好きだったのです。
カメラのデザインの勉強が正しい道だったのですが、子供だった自分はそこに気がつけていなかったのです。あの頃に戻って、教えてやりたいです。
結局、写真学校を途中で辞めて、自分に向いている仕事が何なのか?と、自問自答しました。将来、自分は何をやりたいのか?を模索して模索して、ついに、アニメを作る仕事をやりたいとみつけるのです。
当時、実写の映画業界はあまり魅力を感じませんでした。
テレビ業界も同様でした。また、テレビゲームが出てくる直前だったので、ゲーム業界に行くという選択肢もありませんでした。
ただ、どうやってアニメ業界に入るのかが分かりません。
また、アニメの仕事の業種に何があるのかも知りません。
目立っているのはアニメーターさんですが、わたしは絵が下手なのであり得ないのです。次に監督が目立っていたので演出をやりたいと考えました。しかし、いま考えると、自分のことを分かっていない「大馬鹿もの」です。
ミスター味っ子の時に、自分には演出の才能がないことを身を持って知るのですが、それはあとで書きますね。
結局、色々あってプロデューサーになるのですが……、と言うことで、次回から「新世紀GPXサイバーフォーミュラSAGA」の時代、わたしがプロデューサーになった頃のことを書きたいと思いますので、生暖かく見てもらえると嬉しいです。
1982年秋、バイト募集を集めた「日刊アルバイトニュース」と言う毎日発売している雑誌を買ってページをめくると、「未来少年コナン」を作った制作会社日本アニメーションの制作進行募集の記事が載っていたのです。
そこで、日本アニメーションに電話しました。
すぐに面接しますので来てください言う流れになりました。
12月、聖蹟桜ヶ丘駅にある日本アニメーションに通うこととなりました。
さて、ここからアニメ街道をひたすら歩くことになります。何も知らない若者(バカ者)の「アニメ道(みち)」を思い出せる限り、実話として書いていきたいと思います。あ、でもどうしても思い出せないところは、少しフィクションを入れるかも知れませんが、頑張って思い出しますね。
あと、わたしが撮影した写真や、思い出深い資料などをアップ予定です。生暖かい気持ちで見てやってください。それでは、よもやま話にお付き合いのほど、よろしくお願いします。
🔻幼少時代、学生時代、いつもタレ目で目が細い、とほほ!
🔻青森県から東京に出てきて1ヶ月で10キロ体重減りました!
追伸:
今日からYouTube「ふるさとPアニメ道」もスタートしましたので、ぜひぜひチャンネル登録の上、ご覧くださいませ。
🔻リンクはこちら
https://www.youtube.com/channel/UC_jrvVljSFUhGmxpCvYuq5A
古里尚丈(ふるさとなおたけ)
1961年5月3日生まれ。青森県出身。
1982年日本アニメーションに制作進行として入社。1985年スタジオ・ジブリ『天空の城ラピュタ』制作進行。1987年サンライズ入社『ミスター味っ子』『勇者シリーズ』等、制作進行・設定制作・制作デスク・APを務め『新世紀GPXサイバーフォーミュラSAGA』からプロデューサー就任。『星方武俠アウトロースター』『GEAR戦士電童』『出撃!マシンロボレスキュー』『舞-HiME』『舞-乙HiME』他、オリジナルアニメーションを14作企画制作。
2011年2月企画会社、株式会社おっどあいくりえいてぃぶを設立。『ファイ・ブレイン~神のパズル』や『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』で企画・プロデューサー。『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』企画協力、『グレンダイザーU』アソシエイトプロデューサーとして参加。現在、ゲーム等参加、新企画を準備中。
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