記事: 第96回:『ファイ・ブレインの時期は、わたしにとって大きな挑戦タイムでした』
第96回:『ファイ・ブレインの時期は、わたしにとって大きな挑戦タイムでした』
わたしにとっての「ファイ・ブレイン~神のパズル」とは?
それは、2011年2月にサンライズを退社し自分の会社を起ち上げ、新たな立場でオリジナルアニメーションを作ることになった最初の作品です。
と、言うことから初めてばかりの作品でした。
初めてであり、ノウハウもないため一番混乱したのは自分の会社運営です。
改めて思い出しても、「ファイ・ブレイン」は、初めましてのスタッフから始まり放送局も初めてでしたので、「お初にお目にかかります」の挨拶が多かったです。
いま考えると、良くやったなと思います。
だからでしょうか?
とても好きな作品になりました。
今秋15周年を迎えるこのタイミングに色々思い出すことが出来たのは良かったなぁ!と思います。
この原稿とYouTube動画で色々お話ししましたので、「ファイ・ブレイン〜神のパズル」のことがより好きになりました。
2009年夏から企画を始めて、2010年2月からNEPさんに持ち込んだ企画書。
そこから怒涛の展開となり、アニメ化が決まりました。5月からスタッフ選びも始まり、そして、2011年秋の放送に向けて制作となります。
でも、ここで、ひとつ大きな事件が起きます。
2011年3月11日14時46分に「東北地方太平洋沖地震」が起きました。
このとき、わたしたちは上井草にある制作スタジオで「ファイ・ブレイン」のシナリオ打ち合わせを行っていたのです。
盛大にグラグラと揺れが来ました。
あまりにも大きい揺れでしたが、会議室にいる我々は慌てずテレビを付けることとしました。
ニュースを見ながら、シナリオ打ち合わせを続けようとしますが、さすがに地震が続きます。
会議室には、監督、郷内さん、各ライター、局プロデューサー、わたしたちは、さすがに外に出ましょう、と言うことになりドアを開けてびっくり!
なんと目の前に、「ガシャンガシャン」と踊るコピー機がいたのです。
制作マンがそのコピー機を抑えているのですが、無理です。
コピー機が踊り、事務机が走り出していました。
さらに、棚も踊りに参加しようと動き出しました。
みんな、棚や食器棚など、背の高い物が転ばないようにと、我々も手伝うことにしました。
協力して倒れないように押えました。
何分経ったのか?分かりませんが、地震が収まってきたので、まずはみんな外に出ようと声をかけてスタジオにいる進行、演出、アニメーターさんたちとともに1階に降りました。
ビルの前の一方通行の狭い道路に出たわたしたち。
その道路には、目の前にあるサンライズ本社の人間もたくさん集まってきました。
みんな口々に地震のことを話しています。
わたしは、サンライズ本社ビルを見ると壁にヒビが入っていることに気がつきました。
さらに、「ファイ・ブレイン」制作スタジオのあるビルも、一部壁がはがれ落ちていました。
けが人もいませんし、一安心です。
わたしは、青森県出身です。1968年小学2年生のときに、「十勝沖地震」と呼ばれる大きな地震を経験しています。先生の指示のもと教室からグラウンドにみんなで移動したんですが、地面が割れていたりして怖かった記憶があります。
そして、自宅までの帰路、塀などあちこちが倒壊していたりしてこれも怖かったですね。
実はそのとき、母親が病院に入院していましたので、家に寄ってから病院に歩いていきました。
母は病室で待っていてくれました。顔を見てほっとして、家のなかの様子を話しました。
タンスなど家具が倒れていたことを伝えました。そこで、ランドセルに入れてきた瀬戸物でできた鹿の置物を出して「これ、お母さん鹿が子供の鹿を守っていたんだよ」と、教えました。
そうなんです、わたしは、タンスの上にあった置物のなか、本来割れていてもおかしくない親子鹿の置物が壊れていないだけでなく、子鹿を抱くようにして床に落ちていたのが嬉しく感じて、そのことをわたしは母親に教えたくランドセルに入れて持ってきたのです。
母親が「すごいね」とニコニコしていたことが記憶の彼方にあります。
2011年3月11日のあの日、わたしの母と親子鹿の置物の小さな物語を思い出していました。
そんな母もコロナ禍のなか天に旅立ちました。
と言うように、地震はそれなりに経験していますが、さすがに揺れが大き過ぎるし揺れる時間が長すぎでした。
でも、仕事仲間がたくさんいるのも安心材料でした。
監督、シリーズ構成、ライター、制作で相談し「今日はシナリオは中止にして帰宅しよう」と言うことになりました。
わたしも車に乗って、事務所に移動しました。事務所内は、倒れた備品がなかったので、青森県の両親、そして、自宅の家族が心配になり電話をして、帰宅することにしました。
道路は混んでいるし、さらに最初電話はつながるのですが、数回目からつながらなくなりました。特に、青森県の両親とは、1週間電話が不通になり心配でしたが、なんとか復旧し無事を確認できました。
ただ、問題は家に帰ってからテレビのニュースを見てからでした。
大津波が街を根こそぎさらっていく、そんな映像を見ました。なにが起きているのか?頭が真っ白になるそんな事件でした。
わたしは、2月に起業しましたので、3月か4月に知り合いを呼んで軽くお披露目会をやろうとたくらんでいましたが、それも全てなしとしました。
エンターテイメント業界で生きているわたしとしては、あの頃、人間にとって何が大切で何が必要なのか?をすごい考えました。
家がなくなる。
愛しい人がなくなる。
大切な思い出がなくなる。
リアルな現実を目の当たりにしました。
知り合いのクリエイターは、色々受信するのでテレビのニュースは観てはいかんと話していました。クリエイターではないわたしでさえも、色々想像してしまい大変でした。
災害が起きると、エンターテイメントは最後に必要なものなのだ!と言うことをより理解します。
「アニメを作って良いのか?」とわたしの心になんども問いかけました。
でも、わたしがやれるのは面白いアニメを作ることです。
そんなことが日々頭のなかをグルグルしていました。
ふと気がついたら、誰に名刺を渡したのか?など、記憶が途切れていました。
当然、必要な打ち合わせは行っていました。
でも、日々の日常は変わっていました。
エリアごと時間を決めての停電もありました。
ビルのエスカレーターが止まっていたり、スーパーの天井の蛍光灯が半分抜き取られて暗くなっていました。
わたし、とある仕事で大阪に出張したのですが、大阪のビルのエスカレーターは動いていましたし、天井の照明が明るかったのです。
このとき、災害地より遠い場所は普通の生活があることを、改めて「リアル」を考えるきっかけになりました。
災害の怖さを本当に考えました。
わたしは、「出撃!マシンロボレスキュー」を制作したとき、本当に災害救助のロボットが欲しいと願ってアニメを作っていました。
でも、2011年3月の地震を経て、本当に「ロボットたちのレスキューチーム」が欲しい思いが強くなりました。
わたしの夢のひとつは、「レスキュー物」のアニメ化です。
すでに企画書は作成済です。
子供たちがレスキューマシンを使って、災害救助していくアニメです。
この企画のレスキューマシンは、「変形するロボット」パターンと「救助用専用の乗り物が変形するマシン」と2種類あります。
真面目にやりたい!です。
2011年10月、「ファイ・ブレイン~神のパズル」の放送が始まるのですが、その頃になって、わたしのなかでもやっと頭がシャキッとしてきたことを思い出します。
春から秋まで半年くらい霧のなか、あるいはモヤのなかを歩いているような日々だったのです。
だからこそ、「ファイ・ブレイン」は、色々な思いを込めて、大切なアニメです。
当時でも13話、26話数の放送が多い中、全75話制作はとても嬉しかったのです。
わたしがプロデューサーになってから一番多い放送回数のアニメでもあります。
あと、Eテレは、日本全国放送で見ることができるアニメでもあり、当時小学生だった子供たちがいま20代の若者になっていると思うと感慨深いのです。
たまに、「見ていました」と言ってくれる若者と会うことがあります。
本当に嬉しいし、感謝しかないです。
「見てくれてありがとう」。
「いまでも覚えていてくれてありがとう」。
古里尚丈(ふるさとなおたけ)
1961年5月3日生まれ。青森県出身。
1982年日本アニメーションに制作進行として入社。1985年スタジオ・ジブリ『天空の城ラピュタ』制作進行。1987年サンライズ入社『ミスター味っ子』『勇者シリーズ』等、制作進行・設定制作・制作デスク・APを務め『新世紀GPXサイバーフォーミュラSAGA』からプロデューサー就任。『星方武俠アウトロースター』『GEAR戦士電童』『出撃!マシンロボレスキュー』『舞-HiME』『舞-乙HiME』他、オリジナルアニメーションを14作企画制作。
2011年2月企画会社、株式会社おっどあいくりえいてぃぶを設立。『ファイ・ブレイン~神のパズル』や『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』で企画・プロデューサー。『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』企画協力、『グレンダイザーU』アソシエイトプロデューサーとして参加。現在、漫画原作、新企画を準備中。



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