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記事: 第19話:『日本アニメーションを辞めた後、なんとジブリに入社しました』

第19話:『日本アニメーションを辞めた後、なんとジブリに入社しました』

コロナ禍が始まる前の年、2019年の頃。

東京は吉祥寺で打ち合わせがありました。

そして、なんとも懐かしい「武蔵野文庫」さんでの打ち合わせとなりました。

そこは、わたしが若い頃仕事をしていたスタジオジブリが入っていたビルの一階にある喫茶店です。

当時は、オープンしたばかりの喫茶店として「武蔵野文庫」はありました。

ただ、片手で数えることが出来るくらいしか入ったことがなかったのです。

カレーが美味しい喫茶店です。

わたしが店内に入って、打ち合わせ相手と「ここは懐かしいです」「当時と変わっていない気がしますが、さて、どうなんだろう?」など話していましたら、マスターが「ん?」と怪訝な表情になりました。

わたしが大昔、このビルの二階にスタジオジブリがあった頃、そこで仕事していた人間ですと、軽く説明しました。

マスターもなるほどと納得したような表情となりました。

わたしは、自分が若くて貧乏だったので、このお店でコーヒー飲めなかったんです、とお話しするとあらら?!みたいに表情が変わります。

吉祥寺の街はかなり変わっていますが、武蔵野文庫はちょっとだけ時間が止まっているようで、本当に懐かしかったのです。

 

ここから、スタジオジブリ時代を少しだけ書きたいと思います。

 

日本アニメーションを退社したわたしは新しい制作会社を探していました。

1985年。知り合いが、新しく会社を作るので制作進行を探していると教えてくれました。

連絡先を聞いて電話を入れたのが、トップクラフトでした。

そこは、「風の谷のナウシカ」の製作を行った制作会社でした。

 

わたしが、スタジオジブリに入社したときは、実はスタジオジブリの影も形もありませんでした。

場所も、阿佐ヶ谷にあるトップクラフトの事務所に通っていました。

数ヶ月後、吉祥寺にスタジオジブリのスタジオ開設となりました。

しかし、机も椅子もありません。

会議室も何もありません。

ちなみに、制作進行もわたししかいません。

 

当時、社長と、宮崎(駿)監督がスタジオの使い方としてどこを制作エリアにするか?作画エリア、美術エリア、演出エリア、仕上げエリアの置き方のプランを出してくれました。

 

そこで、不動産屋さんからスタジオの部屋の見取り図をもらってきてコピーしました。

合わせて、作画机、事務机、仕上げ机、会議室、会議テーブル、流し台、諸々のサイズを割り出して線を引いて描いた厚紙をそれらのサイズで切って、コピーの部屋の見取り図に並べます。

何台、机が入るのか?

机を足したり、場所を移動したり、と、パターンをいくつか出して、社長と宮崎さんに見てもらって方向が決まりました。

 

それから、什器、備品購入として各メーカーにオーダーします。

ちなみに、作画机、仕上げ机は完全オーダーでした。

特に、作画机は映画のレイアウトに合わせてガラス面(ライトボックス部分)が大きくなっています。

だんだんと、什器が入り、スタジオらしくなっていきます。

 

わたしは、いまでもこの什器関連の失敗のことを思い出すと、こころが痛みます。

仕上げエリアに流し台を入れたのですが、あまりにも小さいものを選んでしまったのです。当時の仕上げはセル絵の具、水、筆、ペンを使ってセルにペイント作業します。そこで筆を洗うために、水場、流し台が必要なのです。可能なら広くて深い流し台が必要です。

それなのに、使いづらい狭い流し台をセットしたのはわたしなのです。

 

仕上げスタッフの皆さん、本当にごめんなさい。

 

さて、什器、備品が搬入され、各スタッフが入ってきます。

社長、宮崎さんとわたしの3人しかいなかったスタジオに、アニメーターが1名、2名と入って来ました。

演出、美術、仕上げ、特効、制作も入って来ます。

ついに「天空の城ラピュタ」が動き出してきました。

 

前話数の原稿で打ち入りの意味など書きました。

そこで、いま考えてもちょっとびっくりな「打ち入り」があったことを記憶しています。

なんと、吉祥寺の駅前のホテルで発表会と打ち入りを兼ねたパーティーが開催されたのです。

さすが、映画です。

テレビアニメではやらない規模感です。

わたしは、単なるペーペーの制作進行ですから、スタッフへの挨拶回りでアチコチ走り回っていました。

 

昔のアルバムを紐解くとこのパーティーの写真が数枚ありました。

懐かしい先輩たちの顔が写っています。

 

合わせて、徳間書店アニメージュが作ったと思われる小冊子があります。この小冊子が何に使ったのか?などの記憶がまったくありません。

 

そして、アニメージュ(1985年10月10日発行)で「天空の城ラピュタ」が特集されています。ちなみに、表紙は「アリオン」です。大きな特集は「天使のたまご」「アリオン」「天空の城ラピュタ」の3作です。

そのなかの「天空の城ラピュタ」の特集ページに、85年9月に社内で撮影された写真も載っています。

また、当時のメンバーの集合写真も載っており、右はじ奥にわたしも写っています。ちなみに、この集合写真が小冊子にも載っているのです。

39年前に確かにあった出来事……、懐かしいなあ。

 

皆さんに随分長いことお会いしていませんが、お元気でしょうか?

 

考えてみると、この号のアニメージュだけ、なぜか捨てずに持っています。

だから、今回のネタとして書くことが出来ました。

あの頃のわたし、ありがとう。

そして、数回の引っ越しがあっても捨てずに持って歩いた自分にありがとう。

 

🔻ふるさとP写真録:今週の一枚 (いや二枚)

 

追伸:

YOUTUBE「ふるさとPアニメ道」もスタートしましたので、ぜひぜひチャンネル登録の上、ご覧くださいませ。

🔻リンクはこちら

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古里尚丈(ふるさとなおたけ)

1961年5月3日生まれ。青森県出身。

1982年日本アニメーションに制作進行として入社。1985年スタジオ・ジブリ『天空の城ラピュタ』制作進行。1987年サンライズ入社『ミスター味っ子』『勇者シリーズ』等、制作進行・設定制作・制作デスク・APを務め『新世紀GPXサイバーフォーミュラSAGA』からプロデューサー就任。『星方武俠アウトロースター』『GEAR戦士電童』『出撃!マシンロボレスキュー』『舞-HiME』『舞-乙HiME』他、オリジナルアニメーションを14作企画制作。

2011年2月企画会社、株式会社おっどあいくりえいてぃぶを設立。『ファイ・ブレイン~神のパズル』や『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』で企画・プロデューサー。『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』企画協力、『グレンダイザーU』アソシエイトプロデューサーとして参加。現在、ゲーム等参加、新企画を準備中。

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