第29話:『舞-HiMEの企画は進み、クリエイター以外の仲間作りを始めました』
「GEAR戦士電童」のDVD化の途中から、バンダイビジュアルの担当が代わり、国崎(久徳)プロデューサーになりました。
国崎さんとは、「星方武俠アウトロースター」の時からの付き合いですが、その後一緒に仕事をやれずにおりました。ですが、電童でまた一緒に仕事をすることとなりました。
わたしにとって大切な「相棒(パートナー)」です。
わたしが、迷ったときに助言をくれるのですが、それが的確なのです。
とても、俯瞰で見ており、行くべきゴールに誘導してくれるそんな人です。
2002年秋、「舞-HiME」の企画の方向性が見えて来た時に、上井草の近くのファミレスで相談しました。
と言うか、電童の頃からオリジナルの新企画を作るので、出来た時は見て欲しい、そして、一緒にアニメにしたいと都度話していたのです。
その時が来たと思ったわたしは、迷わず企画の話をしました。
国崎さんは、スタッフは誰にするの?と問いかけてきました。
キャラクターデザインに久行さん、シリーズ構成に吉野さん。
監督は小原さんに声をかけてみたいと話しました。そこで、的確な判断をした国崎さんから、色々レクチャーを受けます。監督初心者なので、となりで何らかのサポートの出来る監督経験者を置けないだろうか?と言われました。
そこで、考えて、お願いしたのが、クリエイティブプロデューサーとして参加してもらった谷口(悟朗)さんです。
などなど、スタッフワークだけでなく、後々大切な宣伝についても色々教えてくれました。
脚本打ち合わせでも、肝になる部分をしっかり見てくれました。
国崎さんは、当時、ヒット作のOVAをたくさん持っていました。
「ヒットの法則」を知っている人なのです。
だからこそ、国崎さんの助言は、わたしにとって重要かつ大切なものとなりました。
声優選びについても、国崎さんの意見、アイデアはかなりもらいました。
さて、ふたりめの「相棒(パートナー)」であり1歳年上のお兄さんである当時ランティスの社長で音楽プロデューサーの井上(俊次)さん。
「新世紀GPXサイバーフォーミュラSIN」からずっと頼るだけ頼ってしまいました。
「激闘!クラッシュギアターボ」、「出撃!マシンロボレスキュー」も担当です。
子供向けアニメの音楽、オープニング主題歌やエンディング主題歌のCDやサントラ盤などなかなか売れないこともあります。そんななか担当してくれたのです。子供に向けて元気な主題歌を作ってくださいました。
わたしは、CDがもっともっと売れて、井上さんに恩返しをしたいと思っていました。
「舞-HiME」は、アイドルが歌って踊るアニメではありませんが、でも、オープニング主題歌もエンディング主題歌も挿入歌も、サントラ盤も、「音楽」が全面に出るアニメにしたいと考えて企画していましたので、音楽も素直にヒット祈願だらけのわたしでした。
井上さんも、作品のこと、宣伝のこと、イメージ戦略など分からないことはすぐに聞いて、ノウハウやテクニックを貯めました。
そして、井上さんは、当時勢いのあった栗林(みな実)さんをオープニング主題歌への起用だったりと、ヒットに導くためのキャスティングをしてくださいました。
また、放送前なのに、キャラクターのイメージソングだったり、色々歌を作ったのです。
オリジナルアニメであり、放送前だから誰も知らないアニメなのに、恐ろしい挑戦をしたのです。わたしは、ハラハラドキドキです。
さらに素晴らしき仲間の紹介です。
宣伝プロデューサー、バンダイビジュアルの轟(豊太)さん。「舞-HiME」のアフレコ時において声優さんたちが和やかに過ごせるのは、轟さんのおかげです。
午前中のアフレコだったので途中お腹が空くのですが、轟さんは銘菓だったり、美味しいおにぎりだったりと、いつも素晴らしい差し入れをしてくれます。
声優さんたち大喜びです。今日は何だろう?と話していたことを思い出します。
また、国崎さんとともに「舞-HiME」らしい宣伝と言うことを模索して、挑戦してくれていました。いまでも思い出すのは、JRの駅貼りポスターです。B1版(サイズ1030mm×728mm)と言う大きなポスターを作成して貼ったのです。何枚も貼ってあるのを見た時はびっくりでした。あと、色々なイベントへの声優さんの参加も組んでくださいました。
ラジオ番組なども決めて行きました。わたしも、そのラジオにゲスト出演した記憶があります。
「舞-HiME」のコミック連載で出会った秋田書店の当時週刊少年チャンピオンの副編集長だった伊藤(純)さん。
伊藤さんは、「舞-HiME」をすごく気にいってくれて、いまでも会うと「舞-HiME」はいまでも通用する面白さがあるよね、と言ってくださいます。
毎週連載ですので、各告知、宣伝などの連携もしっかり取ってくれました。
漫画家の選定から、内容についても色々意見を出してくださり、漫画家の佐藤(健悦)さんを交えた打ち合わせも楽しかった記憶があります。
年に一度は会って情報交換をするそんな大切なひとりです。
他にも、最初に「舞-HiME」ムック本に手を上げた人。放送直後にムック本の企画提案した一迅社の木村(晃)編集長。かなり、描き下ろしイラストの水着特集と言うぶっ飛んだムック本を作ったと自負しています。そんな提案を受けてくださり、感謝しかないです。
学研メガミマガジンをひとりで作り出した初代編集長の織田(信雄)さん。
織田さんが出世していくなか、わたしはサンライズを辞めて起業となり、それでも年に一度は会って情報交換して、アニメではない新しい仕事や、デジタル書籍のことなど教えてもらいました。
いきなりスポンサードをお願いした当時はブロッコリー社長だった木谷(高明)さん。現在ブシロードの社長です。2015年、後の「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」となる企画を考えて欲しいと言われて、また一緒に仕事が出来たことがとても嬉しかったですね。
2004年アフレコスタジオで初めてお会いし、「舞-HiME」のプレゼンをさせてもらいました。聞いた直後、スポンサード費用はいくら出せばいいの?とズバっと問いかけてきた社長です。そして、その場で「やるよ」と言ってくださいました。豪気です。
これらの方々は、わたしがサンライズを辞めて起業してからも変わらぬ付き合いのある方々です。
当時の出会いが本当に「神ってる」、そんな風に思っています。
わたしがプロデューサーになって紆余曲折、色々経験したなかで出会った方々がいるからこそ企画が出来たのです。
わたしは、オリジナルアニメでヒット作を作るために、当時考えられることは全て出しきって望んだアニメ「舞-HiME」なのですが、ここに参加してくれた方々がより素晴らしいテクニックとノウハウを持っていたからこそ、ヒットに近づいたと考えています。
クリエイターたちを始め、優秀な制作現場の各スタッフたち。
スポンサーを始め、各商品化で参加した企業の方々。
自分と自分の仲間によって走り出した企画「舞-HiME」です。
悩むと、話を聞いてくれる方々。
そして、何かしらのヒントをくれるのです。
ひとりでも何も作れません。
アニメは本当にたくさんの人の力で作られます。
出会いと分かれ、出会いと分かれを繰り返し、相性なのか?残った方々。
色々な人との出会いがあって、経験も出来て、あの頃の古里がいます。
当時アニメ業界で仕事を初めてから18~20年の時間が経っていましたが、でもこの時間があるからこそ、やれたのだと思います。
わたしにとって、どの時間もどの年代も、重要かつ必要なことだったのだと思うのです。
わたしは、「運が良い」と思っています。
大学に行ったわけでもないし、実家が裕福でもない、女性にもてない(笑)、正直根暗で引っ込み思案な20代の若者でした。
それでも、必死にアニメ制作を続けていたら、「運」が巡ってきたのです。
「運」とは、しんにょう編の意味は「道を行く」、その右横に車の文字です、いわゆる運び(はこび)の結果です。自分の進んできた、歩んできた結果として「運」が良かったと思っています。
「舞-HiME」を作るチャンスをくれた方々に感謝します。
🔻ふるさとP写真録:今週の一枚
追伸:
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古里尚丈(ふるさとなおたけ)
1961年5月3日生まれ。青森県出身。
1982年日本アニメーションに制作進行として入社。1985年スタジオ・ジブリ『天空の城ラピュタ』制作進行。1987年サンライズ入社『ミスター味っ子』『勇者シリーズ』等、制作進行・設定制作・制作デスク・APを務め『新世紀GPXサイバーフォーミュラSAGA』からプロデューサー就任。『星方武俠アウトロースター』『GEAR戦士電童』『出撃!マシンロボレスキュー』『舞-HiME』『舞-乙HiME』他、オリジナルアニメーションを14作企画制作。
2011年2月企画会社、株式会社おっどあいくりえいてぃぶを設立。『ファイ・ブレイン~神のパズル』や『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』で企画・プロデューサー。『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』企画協力、『グレンダイザーU』制作統括として参加。現在、ゲーム等参加、新企画を準備中。
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